江戸の循環社会から、「燃やす社会」を経て、もう一度「めぐる」を考える
「なぜ日本では、生ごみのリサイクルがなかなか進まないのだろう?」
葉山町や大木町、上勝町など、生ごみの資源化に取り組む自治体を調べているうちに、そんな疑問が浮かんできました。
海外にも目を向けると、生ごみを分別して堆肥や肥料、バイオガスなどに利用している国があります。
それなのに、日本では生ごみの多くが、ほかの家庭ごみと一緒に集められ、焼却されています。
なぜなのでしょう。
最初は、収集方法や処理施設の問題だと思っていました。
でも、調べていくうちに、もう少し大きな変化が見えてきました。
それは、私たちの暮らしそのものと、「ごみ」に対する感覚の変化です。
日本人は、昔から「捨てる」文化だったわけではない
江戸時代の日本は、よく「循環型社会だった」と紹介されます。
「何も捨てなかった」というイメージで語られることもあります。
もちろん、これは少し丁寧に考える必要があります。
江戸の町にも、ごみはありました。
人口が増えれば、ごみの問題も起こります。
実際、江戸ではごみの収集や運搬、処分の仕組みも整えられていきました。
つまり、江戸時代も決して「ごみのない社会」だったわけではありません。
それでも、今とは大きく違うところがありました。
物が、今ほど豊富ではなかったこと。
そして、
暮らしと自然の循環が、今よりずっと近かったこと。
壊れたものは修理する。
古着は仕立て直す。
紙は再生する。
灰も利用する。
都市から出たものが、農村で資源として使われることもありました。
糞尿さえも農業に利用されていました。
今なら「捨てるもの」と考えるものにも、別の使い道があったのです。
「いらなくなったから捨てる」のではなく、
「まだ使えるなら、誰かが使う」
という世界です。
これは、江戸の人々が現代人より環境意識が高かった、という単純な話ではありません。
物が貴重だった。
農業には資源が必要だった。
そして、人間の暮らしと自然の循環が近かった。
そうした社会の条件が、ものを無駄にしない暮らしをつくっていたのだと思います。
そこから、日本の暮らしは大きく変わった
明治、大正、昭和。
日本は工業化し、都市化していきました。
そして戦後の高度経済成長。
大量に作る。
大量に売る。
大量に買う。
大量に使う。
そして、大量に捨てる。
生活は、どんどん便利になりました。
冷蔵庫ができ、洗濯機ができ、家電製品が増えました。
スーパーマーケットやコンビニエンスストアには、いつでもたくさんの商品が並んでいます。
プラスチック製品や使い捨て商品も、私たちの暮らしに深く入り込みました。
もちろん、これは悪いことばかりではありません。
食べものを安全に保存できるようになりました。
家事の負担も減りました。
衛生状態も大きく改善しました。
私たちは、昔よりずっと便利で安全な生活を送っています。
ただ、その便利さの裏側で、一つの大きな変化が起こりました。
「使い終わったものは、自分の暮らしから外へ出せばいい」
という仕組みができたことです。
「ごみは家の外へ」
家庭でごみが出る。
袋に入れる。
決められた日に出す。
収集車が持っていく。
その後のことは、ほとんど考えなくてもいい。
これは、とてもありがたい仕組みです。
特に都市部では、なくてはならないものです。
そして日本では、限られた最終処分場を有効に使うためにも、ごみを焼却して減量する仕組みが発達してきました。
つまり日本では、長い時間をかけて、
「ごみを集める仕組み」
と
「ごみを燃やして処理する仕組み」
が、とてもよく整えられてきたのです。
その結果、私たちの暮らしの中にも、
「ごみは、家の外に出せば処理されるもの」
という感覚が定着していったのではないでしょうか。
自分が捨てた後のことを、ほとんど考えなくても暮らせる。
便利な仕組みです。
でも、その一方で、
ごみが「自分とは関係のないもの」になりやすい
という側面もあります。
生ごみは、特に「外へ出したい」
この変化を考えるとき、私は「衛生」という言葉が気になります。
日本では、清潔であることがとても大切にされてきました。
もちろん、「日本人は世界一きれい好き」というような単純な話ではありません。
近代以降、公衆衛生が発展する中で、清潔を保つことが健康を守るうえで重要になっていきました。
そして私たちは、暮らしの中で、
臭いものは密閉する。
腐るものは早く外へ出す。
虫が寄るものは置かない。
という感覚を身につけてきました。
考えてみると、生ごみは、その反対側にあります。
臭う。
腐る。
汁が出る。
虫が来る。
できれば触りたくない。
できれば家に置いておきたくない。
だから、
「生ごみを家庭で堆肥にしましょう」
と言われたとき、
「えっ、生ごみを家に置いておくの?」
と感じる人がいても、不思議ではありません。
これは衛生上の問題だけではなく、
「不快なものを生活空間から遠ざけたい」
という感覚とも関係しているのではないでしょうか。
もちろん、これが生ごみリサイクルの進まない原因だと断定することはできません。
行政の収集システム、処理施設、費用、住宅事情、生ごみの水分や腐敗など、さまざまな要因があります。
でも、
臭いや虫、腐敗を避けたいという感覚が、家庭で生ごみを循環させることへの心理的なハードルになっている可能性
は、考えてみてもよさそうです。
「昔に戻ればいい」という話ではない
ここは大切なところです。
江戸時代の暮らしがすべて良かったわけではありません。
現代の公衆衛生がもたらしたものは、とても大きい。
便利な生活も、私たちにとって大切なものです。
だから、
「昔のような暮らしに戻りましょう」
という話ではありません。
むしろ考えたいのは、
衛生と便利さを保ちながら、どうやって循環を取り戻すか。
ということです。
「ごみ」という名前をつけたのは、人間
ここから、少し見方を変えてみます。
生ごみを、
「どう処理しよう?」
と考えるのではなく、
「これは誰の食べものになるだろう?」
と考えてみる。
すると、同じものが違って見えてきます。
人間にとっては「生ごみ」。
でも、微生物にとっては栄養になる。
ミミズにとっては食べものになる。
黒水虻の幼虫にとっても食べものになる。
発酵微生物にとっても、分解する材料になる。
そして、土に戻れば、やがて植物へつながっていく。
考えてみれば、
「ごみ」というのは、人間側から見た名前なのかもしれません。
「これは誰の食べもの?」
この問いを持つと、生ごみの見え方が変わります。
「どう捨てるか」ではなく、
「どう次につなぐか」
と考える。
堆肥にする。
発酵させる。
エネルギーに変える。
微生物に分解してもらう。
家庭でできることもあれば、地域で行うこともあります。
すべての生ごみを家庭で処理する必要はありません。
家庭で難しいものは、自治体が分別収集して資源化する。
地域に施設があれば、そこで処理する。
家庭でできる人は、家庭で循環させる。
いろいろな方法があっていいのだと思います。
大切なのは、
「生ごみ=燃やすしかないもの」
と決めてしまわないことです。
日本は「循環できない国」なのだろうか
ここまで考えて、私は少し不思議に思いました。
日本人は、分別が嫌いなわけではありません。
むしろ、家庭ごみの分別はかなり定着しています。
決められたルールがあり、その先に意味が見えれば、多くの人が協力する。
だから問題は、
「日本人の環境意識が低いから」
という単純な話ではないのだと思います。
むしろ、
生ごみを分けたあと、どこへ持っていき、何に変えるのか。
その仕組みが、まだ十分にできていない。
そして、すでに焼却を中心としたごみ処理の仕組みができあがっている。
だからこそ、新しい循環の仕組みをつくるには、収集方法から処理施設、資源の利用先まで、社会全体を考え直す必要があります。
江戸に戻るのではなく、現代に「循環」を組み込む
江戸時代には、物が貴重だったから循環していました。
高度経済成長の時代には、大量生産・大量消費によって「使って捨てる」仕組みが広がりました。
そして今、資源や環境の問題から、もう一度「循環」が求められています。
でも、昔と同じ社会に戻る必要はありません。
今の暮らしに、今の方法で循環を組み込めばいい。
家庭でできること。
地域でできること。
自治体が担うこと。
それぞれがあっていい。
江戸時代の知恵をそのまま再現するのではなく、
現代の衛生感覚と便利さを保ちながら、もう一度、ものがめぐる仕組みをつくる。
私は、そこに可能性があると思っています。
そして、私のところでは「キエーロ」だった
ここまで考えて、もう一度、自分の暮らしを振り返ってみました。
私が使っているキエーロでは、生ごみを土の中に入れます。
すると、土の中の微生物が生ごみを分解してくれます。
特別な薬品を入れるわけでもありません。
微生物に、
「これ、食べてね」
と渡しているようなものです。
そう考えると、キエーロは単なる「生ごみ処理容器」ではなくなってきます。
人間が「ごみ」と呼んだものを、
もう一度、自然の循環の中へ戻していく場所。
そんなふうにも見えてきます。
生ごみを減らしたいと思って始めたことでした。
でも、使っているうちに面白くなってきたのは、
「生ごみが消えること」ではなく、その先で何が起きているのか
でした。
土の中では、目に見えない微生物が働いている。
食べものだったものが分解されていく。
そして、その先には土があり、植物があります。
生ごみは「終わり」ではなかった。
循環の途中にあるものだった。
そう考えると、「ごみ」という言葉そのものが、少し違って見えてきます。
ごみを減らす。その先へ
もちろん、ごみを減らすことは大切です。
焼却量を減らすことも大切です。
ごみ処理にかかる費用や環境への負荷を減らすことも大切です。
でも、その先に、
「そもそも、これは本当にごみなのだろうか?」
という問いがあってもいいと思うのです。
人間にとって不要になったもの。
でも、自然界にとっては不要とは限らない。
誰かが食べる。
誰かが分解する。
別の形になって、また土や植物につながっていく。
そう考えると、
生ごみは「終わり」ではなく、次のいのちへ渡される途中にあるもの
なのかもしれません。
江戸の暮らしを調べることから始まったこの疑問は、最後には自分の足元に戻ってきました。
私たちは、もう江戸には戻れません。
でも、
「めぐる」という感覚を、現代の暮らしの中にもう一度取り戻すことはできる。
その一つの小さな方法が、家庭の生ごみを土に返すことなのかもしれません。





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